幕藩体制

体制の確立

江戸幕府を開いた徳川家康の祖先は、三河国(現在の愛知県)の山地出身で、三河平野に進出し大名としての基盤を確立した戦国大名の松平氏であった。 しかし、西の強豪織田家に攻められ敗れたため、家康の父・広忠は殺された。 家康は同盟を結ぶために人質として今川家に送られたが、途中で織田家に捕らえられていた。 父の死後、家康は今川家に送られ、12年間の幽閉生活を送ることになる。 1560年、織田信長が桶狭間の戦いで今川家を滅ぼし、天下統一を果たすと、家康はようやく釈放された。 家康は三河の岡崎に戻り、この国を支配下に置いた。 織田信長の盟友として京東征の後方を守り、以後は独自の軍勢で着実に東進した。 1582年には、本拠地三河のほか、駿河・遠江(現在の静岡県)、甲斐(山梨県)、南信濃(長野県)の4カ国を領有する有力大名となった

秀吉が権力を握ると、家康はまず反対した。 しかし、その後、家康は秀吉に服従し、秀吉の家臣団の中で最も有力な大名となり、秀吉政権の最高幹部である五大老の長に就任した。 秀吉の死後、諸大名は秀頼派と家康派に分かれた。 1600年の関ヶ原の戦いで、家康は決定的な勝利を収め、天下布武を確立した。 家康は、信長や秀吉の失敗を見て、1603年に江戸幕府(通称、徳川幕府)を設立し、その地位を確立する。 1603年に江戸幕府(通称:徳川幕府)を開き、将軍の称号を与えて諸大名を掌握した。 関ヶ原後の恩賞を口実に、自分に反対する多くの大名を取り潰し、減封し、移封した。 没収された土地は、親族や徳川家家臣に与えて大名としての地位を確立させ、その所領を拡大するか、徳川家の所領として留保した。 さらに、秀吉の嫡男・秀頼は近畿地方の大名に格下げされた。 幕府設立から2年後、家康は将軍職を息子の秀忠に譲り、駿府(現在の静岡市)に隠居して幕府の基盤整備に専念した。 1615年、家康は大坂城を攻め落とし、秀頼と豊臣家を滅亡させた。 その直後、「武家諸法度」と「公家諸法度」が公布され、幕府による大名や朝廷の支配の法的根拠となった。 1616年、家康は死去したが、すでに後継者は決まっていた。

 陽明門
東照宮陽明門(金箔入り、木彫、1636)、栃木県日鋼町の日鋼。

オリオン出版

二代将軍秀忠と三代将軍家光の時代には、幕府の統制政策がさらに進み、幕藩体制(幕府と大名の領域を合わせた政治体制)が完成した。 1633年から42年にかけての改組により、幕府の行政は、老中・若頭・三奉行(寺社奉行・将軍家掌・国庫奉行)に代表されるように、ほぼ完成した。 領地の没収や減封も行われ、関東、近畿、東海道などの戦略的な地域を幕府の親族や家来である大名に分配し、外様大名を牽制する大規模な移封も行われた。 大名の配置換えとともに、幕府の直轄地も全国の要所要所で増やされた。 京・大坂・長崎などの重要都市や佐渡などの鉱山も幕府の直轄地となり、商工業・貿易の統制に利用された。

また、幕府は武家諸法度を改正し、大名を隔年で江戸に参勤させ、その妻子を人質として江戸に常住させる参勤交代という制度を設けた。 また、この制度は、大名、特に最も遠くに住む危険な遠山に、二つの行政機構と江戸との往復に多額の資金を使わせるものであった。 さらに、大名は幕府領の城郭建設などの公共事業にも協力させられ、財政難に陥った。 徳川幕府の領地は700万石余り、全国の約4分の1を占めるようになった。 このうち直轄地が400万石余、旗本・御家人への分配が300万石余である。 また、幕府は海外貿易の独占を宣言し、通貨発行権も単独で持っていたため、大名よりもかなり大きな財源を持っていた。 9007>

このような最高権力者としての幕府の組織化に伴い、大名の藩政も次第に具体化していった。 将軍と大名の関係は、封建的な知行制度にもとづく主従関係であった。 理論的には、土地は将軍のものであり、将軍はこれを特別な恩恵として大名に分け与える、つまり御料とした。 大名になるには、少なくとも1万石以上の土地を支配する必要があった。 その見返りとして、大名は将軍に軍事的な奉仕などをする義務を負っていた。 藩主と家臣の間にも同じような関係があり、大名が支配を集中し強化するためには、この関係を強化することが必要であった。 大名は家臣に従来の知行権を制限するため、代わりに米を支給し、家臣の大名への依存度を高めた。 同時に、この政策によって大名の直轄地が増え、藩の経済基盤が強化された。 このように大名は、幕府が家臣を統制するのと同じ方法を、自分の家臣にも用いた。 こうして、将軍から大名、家臣に至る国高制度によって、階層的な封建体制が確立された。 大宝律令の検地では、農民を実際の耕作者として認め、納税の義務を負わせた。 幕府や大名の検地は、同じような趣旨で、より細かく、より正確に、より多くの税金を徴収することを目的としていた。 徳川の村は、それまでの地主(明主)が支配する村とは異なっていた。 徳川の村は、百姓と呼ばれる小作人が中心となって構成されていた。 村は新体制の行政単位となったので、その機能を果たすために、村役人(庄屋、組頭、百姓代)の三層構造が確立された。 全国の町村の住民は五人組を結成し、納税の連帯責任、領主の法令違反の防止、相互扶助、相互監視を行うこととされた。 農民に対する経済的な統制はさらに強化された。 農民の経済的な管理はさらに強化され、土地の売買や放棄、職業の変更は厳しく禁じられ、服装や食事、住居にも細かな制限が設けられた。 1649年に幕府が発布した「慶安の御布令」は、幕府が農村行政を統制するための政策をまとめたものである

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