Anglo-Russian Agreement (1907)

イランを勢力圏に分けた協定

19世紀後半、ロシア帝国の中央アジア進出と南アジアでのイギリス帝国支配の強化により、ヨーロッパ2帝国の間で激しい対立が発生した。 アフガニスタン、イラン、チベットの3カ国は、イギリスとロシアのアジアにおける植民地支配の緩衝地帯であり、その利害は対立していた。 1905年、ドイツが世界の大国として台頭し、ロシアがアジアの新興国である日本に屈辱的な敗北を喫したことで、英露はアジアにおける対立を解決する必要性を感じていた。 その結果、1907年、イギリスとロシアは経済的、政治的利害を調整する協定を結んだ。 イランに関しては、英露協商はイランの厳密な独立と完全性を認めた上で、イランを3つの地域に分割した。

協定では、ロシアの領土であるトランスコーカサスと中央アジアに隣接するイラン北部全域をロシアの利益のための独占影響圏とした。 この北部地域は、オスマン帝国との国境にある西のカスルエシリンから始まり、テヘラン、イスファハン、ヤズドを経て、アフガニスタン、イラン、ロシアの国境が交差する東部国境までと定義されていた。 イラン南東部のイギリス領インドと接する小さな地帯は、イギリスの排他的領域として認められていた。 イギリス領は、西は北はケルマン、南はバンダルアッバースまで広がっていた。 この二つの圏域を隔てるイラン中央部の一部と南西部一帯は中立地帯とされ、両国とそれぞれの民間人が影響力と商業的特権を競い合うことができた。 英露にとっては、第一次世界大戦まで続く外交同盟を確立するための重要な協定であったが、イラン政府には何の相談もなく、事後的に知らされたものであった。 英露協定の実施を阻止する立場にはなかったが、イラン政府としては、英露協定の正当性を認めず、イランから見れば、自国の統合と独立を脅かすものであったからだ。 特にイランの民族主義者は、立憲革命(1905-1907)時に民主主義の道標として理想とした英国に裏切られたと感じていた。 英露協定の重要な遺産は、イランのナショナリズムの強力な構成要素として、特に反英感情、より一般的には反西洋的な態度の成長であった。

英露協定は、イランにおける政策に関して、二国間のすべての競争を排除するものではなかったが、1907年以降は、しばしばイランの利益を損ねるような幅広い協力関係を育んだ。 特に英露は、王党派と立憲派の対立を支援することでイランの内政に介入し、その介入は次第に軍事的な側面も持つようになった。 1918年、ロシアの新革命政権によって協定は破棄された。

立憲革命の項も参照。 ペルシャにおけるロシアとイギリス、1864-1914年: A Study in Imperialism. New Haven, CT: Yale University Press, 1968.

Siegel, Jennifer. Endgame: 英国、ロシア、そして中央アジアの最終的な闘争. London and New York: Tauris, 2002.

White, John Albert. Transition to Global Rivalry: ホワイト,ジョン・アルバート,「グローバル・ライバルへの移行:同盟外交と四大エンテ,1895-1907」. Cambridge, U.K., and New York: ケンブリッジ大学出版局, 1995.

Eric Hooglund

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